1.17 がんばろうKOBE

がんばろうKOBE」 被災地を照らした希望
2020年1月17日 11:00神戸新聞NEXT
 1995年1月17日午前5時46分。
 淡路島北部を震源とするマグニチュード7・3の激震は港町・神戸を壊滅させた。

 犠牲者6434人、負傷者4万3792人、倒壊家屋63万9686棟。被害は神戸から阪神間に及び、当時、戦後最悪の自然災害となった。
 多くの人が家族や友人を亡くし、帰る家を失った。いたる所で火災が起き、駅舎は崩落し、高速道路は倒壊。電気、ガス、水道のライフラインは寸断され、避難所には人が押し寄せた。



激震で横倒しになった阪神高速
 元の生活に戻れるのだろうか。笑って過ごせる日々は帰ってくるのだろうか。当たり前のように迎えていた「明日」が闇に包まれていた。

 25年前のあの瞬間、神戸から希望が消えた。

 

せめてお見舞い、のはずが…

 当時、神戸に本拠地を置いていたプロ野球オリックス・ブルーウェーブの監督、仰木彬(故人)が自宅のあった福岡から神戸に戻ったのは、地震から10日後のことだった。

 神戸市役所に入ると、眼前に広がる光景に言葉をなくした。
 市役所のロビーは避難してきた被災者であふれかえっていた。震災の現実を目の当たりにし、痛々しい気持ちがこみ上げた。



 仰木は近鉄バファローズの監督時代に後のメジャーリーガー、野茂英雄の才能を開花させ、94年のオリックスの監督就任後はイチローをブレークさせた球界屈指の名将だ。
 だが、地震で家族や自宅を奪われた人たちに、一介のプロ野球の監督に何ができようか。無力感の中、せめてお見舞いの気持ちを伝えようと、一人一人と握手をして回った。

 ところが、被災者は仰木の手を握り、こう返してきた。

 「仰木さん、頑張ってください」

 生前、仰木は震災発生当時の気持ちをこう語っている。

 「住むことや食べることを心配しなければならない状況で『頑張ってね』と言われる。『頑張らなきゃ』と思った」



生前の仰木監督

 プロ野球人として、地震で大きな打撃を受けた神戸のために何ができるのか。
 被災者の言葉を受け、名将は心を決めた。

 

不十分な戦力。調整不足

 「がんばろうKOBE」。

 オリックスの選手はユニホームの袖にワッペンを貼り、ペナントレースに臨んだ。
 「がんばれ」ではなく、「がんばろう」。被災地の市民球団として被災者と共に闘う。その姿勢をロゴに込めた。



右袖に「がんばろうKOBE」のワッペンをつけてプレーするイチロー
 地震の影響で交通網はまだ完全に復旧していなかった。集客を考えれば、ホームスタジアムを神戸以外の地域に移す案もあった。
 だが、宮内義彦オーナーは「こういうときだからこそ」と、本拠地、グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)での試合開催を決めた。

 地震発生からまだ2カ月余りの4月1日。まちにはまだがれきが残っていた。仮設住宅が並び、鉄道も全面的には戻っていなかった。
 それでも、神戸で行われた開幕戦のスタンドは、着の身着のままで集まったファン3万人で埋め尽くされた。



グリーンスタジアム神戸(当時)のスタンドに詰めかけたファン
 当時のオリックスは、前年の1994年にプロ野球史上初の200安打を放ったイチローが君臨したものの、チームとして充実した戦力を誇っていたわけではなかった。

 加えて震災の影響でキャンプ地の沖縄・宮古島にたどり着くのがやっとの状況。選手の調整不足は明らかで、コンディションは万全とは言いがたかった。
 対戦相手によって打線を組み替える「仰木マジック」でやりくりしながら、シーズン序盤は何とか白星を拾う試合が続いていた。



 ただ、首位を走る西武ライオンズに食らいつく中、ナインは自発的に「神戸のために」という言葉を口にするようになっていた。
 当時の主力、田口壮(現オリックスコーチ)は震災後、神戸新聞の取材にこう答えている。

 「あの年は神戸のファンと一緒に闘っていた」

 

神戸で試合をしていなければ…

 オリックスが勝てば、まちは喜びに沸き、被災者はひととき、つらさを忘れることができた。
 再建に向かう自らを投影しながら、試合を見守った。懸命に戦うチームが、復興に力を尽くす人々を後押しした。



 当時の野手陣はイチロー田口壮藤井康雄トロイ・ニール、D・J。
 先発投手陣は野田浩司星野伸之長谷川滋利が担い、抑えは平井正史。「がんばろうKOBE」の旗印の下、チームは結束を強めた。

 日を追うごとにスタジアムに詰めかけるファンが増え、一体となって応援。
 リーグ優勝にひた走るオリックスが、被災地に「明日」を呼び、いつしか「復興のシンボル」となった。



 震災発生から8カ月後の1995年9月19日、オリックスはリーグ優勝を飾る。

 阪急ブレーブス時代以来、11年ぶり。オリックスとしては初のチャンピオンフラッグを神戸にはためかせた。シーズン終了後には神戸市内をパレード。沿道は15万人ものファンであふれた。



神戸市内をパレードする仰木監督(中央)やイチロー(左)
 チームを率いた仰木は後年、こう述懐した。

 「普通はプロ野球選手が気持ちを一つにするなんて難しいことなんだ。選手は自分のためにプレーする。ただ、あの年は社会的な使命感があったんだと思う。神戸で野球をさせてもらっている。自分たちはどうしたらいいか。復興への思いが選手の団結心を生んだ」

 そして、こう付け加えた。

 「神戸で試合をしていなければ、優勝などできなかった」



選手に胴上げされる仰木監督
 2004年に近鉄バファローズと合併し、大阪に本拠地を移した今もオリックスのスタッフ、選手は「1・17」に黙祷をささげる。
 震災を経験した選手はコーチとなり、当時を知る現役選手はもういない。ただ、25年前、神戸に希望をもたらした球団の歴史は今も受け継がれている。



 
 

 

部員を探し、被災地を走る監督

 大規模な災害が発生すると、スポーツは自粛ムードに包まれる。
 生死が叫ばれる中、悠長にスポーツなどやっていいのか。「被災者に勇気を与えたい」などと軽々しく言っていいのか。

 災害が起きるたびに、スポーツ界は存在意義を突きつけられる。

 「野球なんかやったらあかんやろと思いました」

 25年前の震災当時、報徳学園高校野球部を率いていた永田裕治=2019年U18ワールドカップ日本代表監督=は記憶をひもとく。



 震災発生直後、部員2人の安否が分からなくなった。
 地震の影響で波を打つ道路を原付バイクで走り、不明の選手の自宅まで確認に向かった。学校のグラウンドには亀裂が入り、ノックバットが吸い込まれるような状態だった。

 校舎からは火の手も上がった。
 1週間、2週間が過ぎても電車は不通で生徒たちが登校するすべもない。同年春のセンバツ大会出場の可能性があったが、当然、野球の練習どころではなかった。



震災でスタンドが被害を受けた甲子園球場
 高校野球の聖地、甲子園球場兵庫県西宮市)そのものが被災地にあった。
 球場こそ倒壊は免れたが、周辺は甚大な被害を受けていた。まだ傷跡が癒えていない、復興途上の被災地でセンバツを開催すれば、地元住民の感情を逆なでしかねない。

 日本高校野球連盟は2月1日に予定していたセンバツ出場校の選考委員会を延期し、3月の大会開催の是非を議論した。



次々とがれきが運び込まれた甲子園浜
 主催者はスタンドでの鳴り物自粛、応援団バスの乗り入れ規制など、球場周辺地域への配慮を示したが、被災自治体が首を縦に振らなければ、大会開催にかじを切ることは難しかった。
 実際、復旧・復興事業に力を尽くすため、地元の自治体主催のイベントは軒並み中止が決まっていた。

 

「スポーツにはそういう力が」

 復興の陣頭指揮を執っていた西宮市長、馬場順三(故人)は当時の心境をこう明かしている。

 「復旧・復興が最優先であることは当然だった。ただ、このまま何もかも中止で前に進むのだろうかという気持ちもあった」

 被災地は日々、暗いニュースが続いていた。
 復興への道のりの険しさ、生活再建への厳しさばかりが伝えられ、焦燥感が漂っていた。足元の現実が立ちはだかり、上を向けなかった。



 鬱屈していた被災地の思いを代弁するかのように、当時の兵庫県知事の貝原俊民(故人)は、3月のセンバツ開催に逡巡していた日本高校野球連盟にこう伝えたという。

 「被災者も桜の花が咲くころに明るいニュースを待っていると思います」

 復興作業の妨げにもなりかねない大きなイベントの開催は批判されるおそれがあった。
 それでも、被災地を預かる知事はセンバツ開催を前に進めた。当時を知る職員は振り返る。

 「賛成半分、反対半分だったと思う。ただ、避難所や仮設住宅暮らしの人はふさぎこんでいた。甲子園大会が開かれ、地元の高校が出場すれば、人が集まり、輪ができる。高校野球を話題に語り合うことができる。スポーツにはそういう力がある」

 

スポーツでは救えない。それでも…

 1995年春のセンバツは予定通り開催された。

 被災地の兵庫から神港学園、育英とともに出場校に選出された報徳学園お家芸の逆転で初戦を突破。
 監督として甲子園初出場で初勝利をつかんだ永田は振り返る。

 「選手たちは笑顔で一つのボールを追いかけていた。私自身も野球をやれる喜びをあらためて感じました」



兵庫から震災直後の選抜大会に出場した(左から)育英の藤本敦士主将(現阪神コーチ)、神港学園鶴岡一成主将(現DeNAコーチ)、報徳の西島章行主将
 甲子園で躍動する球児たちのはつらつとしたプレーが、厳しい現実に直面していた被災地に明るさと日常を取り戻させた。

 2011年3月に発生した東日本大震災では、当時の日本プロ野球選手会嶋基宏会長(当時楽天)が、震災慈善試合前のセレモニーで「見せましょう 野球の底力を」とスピーチした。
 心のこもった言葉が、不安にかられていた日本を前に向かせた。同年のセンバツ大会は「がんばろう日本」の横断幕が掲げられ、被災地に思いを届けた。



東日本大震災直後の選抜大会で黙祷する球児たち
 その後も2014年の広島の土砂災害、2016年の熊本の大地震、2019年の千葉の風水害と災害が相次ぐ。そのたびにスポーツ界は祈りをささげ、復興への協力を呼び掛ける。
 スポーツで災害の犠牲者を救うことなどできない。ただ、スポーツには、災害で打ちひしがれた人々の「日常」を取り戻す力がある。

 日常はいつしか「希望」へとつながり、被災地を明るく照らす。

 25年前、被災地・神戸で立ち上がった野球人たちが、それを今に示す。